プレイボーイ・ヘフナーの終焉に想う

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プレイボーイ・ヘフナーの終焉に想う
 占領軍の強制により、初めて日本映画にキスシーンが登場したり、新宿帝都座においてストリップ・ショウが始まったり、武士道教育に育った日本人にとって女性のヌード解禁というのは、驚天動地の出来事だった。
 アメリカ文化は右手にハリウッド映画、左手に女性ヌードへの賛美を掲げてこの国にに上陸した。
 女性賛美のアイコンは、なんといっても美女のヌードグラビアに飾られた「プレイボーイ」の日本発売だった。創刊号を飾ったマリリン・モンローは名実ともにハリウッドの頂点にのぼりつめ、毎号巻頭を飾ったプレイメートは女性美の憧れだった。
 ある日突然に、TACの社長室からお呼びがかかった。TACはあの頃、VAN、JUN とともに男のカジュアル・ファッションの先頭を走っていた。
 日本でPLAYBOYブランドの全面展開をすることになった。ついてはPLAYBOYブランドの展開オペレーションの演出を頼むという依頼だった。社長室はすでに、プレイボーイ・カラーのゴールドとブラックに装われ、六本木のペントハウスにオープンしたプレイボーイ・クラブとともに巷の話題になっていた。アプレゲール達はみなプレイボーイの影響をうけ、ウサギちゃんのいるクラブに夜な夜な押し掛けた。
 ベルエアの友人に連絡すると、ならば直ぐロスへ来い、ヒュー・ヘフナーに会わせる、という託宣、ビバリーヒルズの麓にあるプレイボーイ・マンションに連れていかれた。緑に囲まれた数千坪の庭園に600坪の屋敷は、外目にはさほど華やかではなかったが、招き入れられてびっくりした。文字通りヒュー・ヘフナーの金黒趣味と美女たちの天国だった。そこに泳いでいたプレイメート達は、絵にかいたような美しき女たちで、現実のものとは到底信じられなかった。……あのヘフナーに人並みの死が訪れたとは。
 マリリン・モンローが疑惑の死をとげたとき、無一文の彼女の遺体は、ポストと呼ばれるダウンタウンの公共墓地の一隅の安置された。モンローをこよなく愛したヘフナーは、その隣のポストを数億で押え、いつか自分に死がやってきたら、モンローとともに永遠の眠りにつく、といっていたが、果たして31歳の若き愛人は、ヘフナーの思いのままに埋葬したかどうか、すこしばかり気になっている。
 20世紀の女性にたいして、ヘフナーの残したプレイボーイ文化の影響は余りにも大きかった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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