フーターズの挫折

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 アメリカンが大好きな若者や東京出張族にとっての入口は、フロリダ由来の「フーターズ」だつた。
 今年のミスフーターズ・コンテストのクイーンは赤坂にいる、いやダレソレは銀座だとたわいのない興奮でフーターズに通っていた。モデル、レースクイーン、グラビアアイドル系よりは身近でキレイメな女の子たちがサービスしてくれていた。
 いかがわしさのない明るいとなりのチア・リーダーと言った気分で、都会になれていない青年にとってはとても居心地のいいカジュアル・アメリカン・ダイニング&スポーツ・バーだった。
 その昔、プレイボーイ・クラブがあった。
 マリリン・モンローに代表されるプレイボーイ・ガールはカラダにぴったりのダルマと呼ばれる水着ようの服を着、頭に耳をたてて、兎ちゃんのイメージで客にかしずいていた。プレイボーイ・ガールには大きめの女性が採用され、後姿のヒップラインをみただけでドキドキした。前はハーフカップの衣裳から豊かな胸がはみだして、あの頃の日本では考えられないプロポーションの女性たちだった。 
 あのプレイボーイ・クラブにもバブルの崩壊とともに落日が訪れ、オーナーのヒューヘフナーの死とともに消滅してしまった。
 タンクトップとオレンジのホットパンツのフーターズ・ガールのまえに、プレイボーイのうさぎちゃんたちは敗れたが、男たちの女性にたいする認識の変化こそが原因だったような気がする。ゴージャスなエロスより、健康的でコスパに優れた若さのほうが安心できたのだろう。
 そのフーターズがいままた倒産してしまった。  カメラOK。スマホの友撮りもOK。ゆるくて明るいフーターズが生きて行けなくなった、さて時代はなにを要求するのか、まったく判らなくなった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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