ピアフに会い、ダリダを偲ぶ

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ピアフに会い、ダリダを偲ぶ
 いつの頃からか、海外にいくと墓地を訪ねるようになった。
 不謹慎ながらバリの墓地はとても面白い。年齢のせいかともおもったが、必ずしもそうばかりとはいえない。
モンテーニュ通りの超高級ファッション街を歩いても、来シーズン限りの衣装傾向しか読み取れない。それにひき比べ、墓地にいくと何世紀にも及ぶ歴史が現れる。墓石をまえに亡き人の足跡をたどると、際限なく文学や音楽の洗礼を受けられる。
 パリ最大のペール・ラシェーズ墓地には、フランス演劇の父モリエールが眠っている。すぐ傍には愛の賛歌のピアフが、男神にまもられて恋多き女の一生を暗示している。 キスマークだらけのオスカーワイルドはサロメの石像ごとプラスティックの囲いにはいって、現世の女たちのキッスを受けられないようになった。口紅の成分が墓石をくさらすとはショックな情報だ。 いつもロマンティックな薔薇にかこまれているのはショパンの墓。若き日のジョルジュ・サンドが、墓石を占拠して他者を近寄らせない。 世紀の歌姫マリア・カラスは亡くなった時手元金がなく墓はつくれず、後ファン・クラブの人々の手で集合墓地下2階ののポストにはいっている。
 モンパルナスの墓地には、サルトルとボーヴォアールがいるし、ボードレールもケンズブールもここにいる。数年前、ゲンズブールの人気が再来したときには、お花が墓に乗りきらず、いったいすべてがゲンズブールへの献花で埋まってしまっていた。
 エッフェル塔の対岸にあるパッシー墓地には香水王ゲランがいるし、丸いレコード盤を模した赤大理石に守られているのはドビッシーだ。
 モンマルトルの墓地では、ニジンスキーが、牧神の午後のペトリューシカそのままの姿で自らの墓を守っている。椿姫のモデルとなった高級娼婦アルホォンシーヌ・デュ・プレシスの墓前には最後の恋人が残した遺産によりいまでも椿の花が絶えない。華奢で蒼ざめた彼女の写真は、いくど盗難にあってもちゃんと複製されて石額に入っている。モンマルトル墓地最大のパフォーマンスは、金の後光を背負った歌姫ダリダに尽きる。彼女が自殺した38歳とうじの肉体がそのまま石膏像となって建っている。まるで生きている彼女のオーラの如くに、うしろの黒大理石に金の後光がひろがっているのだ。ドラマティックでダイナミックなお墓だ。静かにダリダの墓のまえにたつと、在りし日 ムーランルージュやカジノ・ド・パリの舞台で熱狂を誘った彼女の華やかな姿が浮かぶ。
 パリの墓地は、歴史とあそび、生きざまに想いをはせる絶好の図書館である。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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