バニーガールは昔語り

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バニーガールは昔語り
 1960年代の若者ファッシヨンをリードしたブランドに、VAN とJUN があった。
 VANはアメリカのウェスト・コースト風だったが、JUNはイーストのアイビー風な傾向だった。
 その二つのブランドを追い上げて登場したのが、TACだつた。
 TACの宣伝戦略をになっていたのが新政 卓さん、ムサビで山藤章二さんの同窓であり、長くハイファッションの表紙撮影を担当したり、最後はムサビの映像学科の科長を勤め、数年前リタイアして奈良に転居してしまった。クールなデザイナーであり、フォトグラファーであり、アート・ディレクターだつた。
 その新政さんからある時呼び出された。
 実はTACで、アメリカのプレイボーイを導入することになった。印刷媒体は新政さんがやるが、ショウなどファッション・プロモーションはやって欲しいという注文だった。マリリン・モンローのフルヌードで全世界の男たちの心臓をわしずかみにしていたあのプレイボーイの話だ。TACの社長室はすでに黒とゴールドで、伝説のプレイボーイ・マンションのインテリアを実現していた。
 雑誌のプレイボーイは、遅れて集英社が出版することになったが、フアッションは直ちに立ち上げるという、プレイボーイというブランドの時代性が重要だと受け取った。
 当時の日本では、女性のヌードに象徴されたプレイボーイは、文化的アイコンとして認識され、いわゆる裸のカストリ雑誌ではなかった。裸のポーズはどうでもよく、女性美に寄り添った文化の表徴だった。
 今日のごとく幼いアイドルがAVの主役となり、さらにアラフォーのSEXが日常となり、女性そのものの商品化など想像もつかないことだった。
 プレイボーイ本社が、脱ヌードを宣言し硬派の編集に転じ、ウサギのマークのロゴイメージを守る方向に舵をきったのは、女性自身による女性の解放と堕落の歴史に愛想が尽きた、という結果なのかもしれない。
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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