その中綴じグラビア写真は第二次世界大戦後の女性の肉体解放にとって画期的な出来事だった。
1953年9月PLAYBOY創刊号の目玉写真のモデルとして登場したのが、ノーマ・ジーンのちにアメリカのみならず全世界のセックスシンボルとなったマリリン・モンローその人だった。今日のハード・コアに対し、ヌード写真に於けるソフト・コアの時代がここからはじまった。50セントで売り出されたPLAYBOYは僅か53.991部しか印刷されず、その反響の大きさにヘフナー自身が驚いたと言われている。
さてPLAYBOYの日本展開は十数年後のことになるが、ライセンシーからの依頼をうけPLAYBOYプランドの総演出でかかわることとなった。ヘフナーのいう快活な遊び心、茶目っ気のあるセクシーさをプロモートするには、当時の日本はまだまだ未熟で追いつけなかった。ラビツトヘッドと呼ばれタキシードに蝶ネクタイをつけたウサギがシンボルだが、ハーフカップの黒いダルマ(身体にぴったりのワンピースの水着風のもの)を着せるのに苦労した。、いまではなんでもない衣装だが、あの頃の日本の女の子はまだまだ発育不順で胸もお尻も遠慮がちで着こなせなかったし、男たちも直視できずハミダシタ胸をまぶしげに覗くといった風情だった。
金色のうさぎのマークに彩られたヘフナーの黒いジェット機ダグラスDC9に招待されたときは、ロス空港で足のふるえがとまらなかった。あのヒューヘフナーが84才にして三度目の結婚をするという、相手は61才年下のプレイメート、エネルギーの大きさと深さに脱帽するしかない。いまさら結婚せずとも、彼のプレイボーイズ・マンションには幾人ものプレイメイトがかしずいているのだから…などと考えるのはちいさな俗人の情けないところかもしれない。
ノーマ・ジーンの登場。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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