トリコロールの回転扉

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トリコロールの回転扉
 ずいぶんと色々な喫茶店に通った。
 高校時代は西荻窪の駅前にあった「こけしや」。この店は中央沿線に住む文士たちのたまりで、丹羽文雄、井伏鱒二を始め、良き時代の若手作家が2階に集まり談林風発していた。そこに文学の時代があったし、山本安英の朗読教室も開かれていた。
 まもなく新宿を覚えた。「中村屋」のカレーに始まり、生意気にも原稿書きは中村屋裏の「ととや」だつた。 人に会うのは「武蔵野茶廊」寺山修司と初めて会ったのもここ、横尾忠則から「涙のびんずめ」のポスターを受け取ったのもここだつた。武蔵野茶廊には何時までいてもほっといてくれる自由な時間があった。
 帝劇のミュージカル時代、打ち合わせは有楽町の「アマンド」と決まっていた。煙草まみれの越路吹雪と矢田茂と、もうもうとした紫煙のなかで明日のショーを議論した。舞台稽古には、必ずアマンドのコーヒーとパルミパイがどっさりと差し入れられた。
 時に銀座7丁目にあったシャンソン喫茶のはしり「銀巴里」にも通った。高英男や芦野宏はトリだったが、前座は丸山明宏いまの美輪明宏だつた。濃いシャドウに真っ赤な口紅でメケメケを唄っていた。妖しさと不思議な魅力を撒き散らし、女装の男子として時代の先頭を走っていた。
 銀座では随分勉強した。並木通りの五丁目にあった日本初のランジェリー・ショップ「ジュリアン・ソレル」、その横にはオーナーの道楽でカウンター・カフェがあった。いつか銀座のカフェにもパリのようなお洒落な絵はがきを置こうと約束して半世紀がたってしまつた。
 5階のナイトクラブ「白馬車」で実験的なサロン演劇をしたこともあった。ハワイ帰りの水森亜土ちゃんが、アタチもナカマよと現れたのも白馬車だった。重い新劇に対してブールヴァール劇を目指し、ラ・ロンドや女中たちなどを上演した。
 女優さんとの出演交渉は、あづま通りの「トリコロール」。昭和の匂いのするカウンターで、青臭い演劇論を振り回し、ジャン・ジュネやシュニッツラーについて語った。
 傍らの回転扉が無表情に回っていた。 トリコロールの回転扉はすべてを見透かしているようだった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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