ダンシガシンダ(回文)

by

in

 人の葬式にいって故人は偉かっただの、惜しいやつを亡くしたとか、あんなこというやつはロクデナシばっかりだ。結局褒めてる自分に酔ってんだよ。褒めたきゃ生きてるうちにやれってんだ。…談志生前のいいぐさである。談志が亡くなってはや十数日がたつが、週刊誌の談志ほめは続いている。彼はあの世で苦笑いしていることだろう。
 談志と初めてあったのは、前座の小よし時代、第一生命ホールで石原慎太郎の芝居をやっていた時、石井伊吉(いまの毒蝮)に連れられて現れた。一夜の芝居をみて、それから毎夜彼はきていた。よく聞くと芝居に惚れたのではなく、ホールの受付嬢に惚れたというのだ。毎日通ってきては、モギリの横から動かない。表は困ってますという報告だったが、それがのちの今の女房。
 二つ目の小ゑん襲名となって、みんなで人形町の鈴本に祝いに押しかけた。折しも桜の季節、上野か墨田で宴会をとなったら、彼は桜は深谷にかぎると主張してひかない。そこで深谷まで車をとばしたが、もはや桜は闇の中。近くの圓鏡の実家へ行こうということになった。天井の間から月が見えてこんな風流な家はない、というのだ。木戸をいくらたたいても起きてこない。表をはずし勝手に土間に入り込み、深谷のネギとスルメと持参の酒で宴会らしきものをして帰ってきた。
 初代の女房(今は二代目)との結婚式で談志が司会をやってくれることになった。第一部は当時モーニング・ショウで話題の木島則夫、なにごともなく平和にとりすすんだ。さて立川談志司会の第二部、三人目あたりの祝辞が彼には気にくわなかった。祝辞は打ち切り、あとは勝手に飲み食いすりゃいいんだ。以上お開き、とさっさと閉会となった。びっくりしたのは客、とりつくろうのに汗をかいたが、短い披露宴はそんなに不評ではなかった。
 笑点が始まった年の夏、軽井沢で寄席をやろうと誘った。よしまかせろということになって、8月毎週土日に旧道赤坂飯店の奥にあった日本料理八千代の座敷が舞台となった。圓楽、円鏡、円窓、毒蝮、そして談志といった豪華メンバーだった。朝吹登水子、遠藤周作さんらが観客となって足を運んでくれた。
 のちに衆議院だの参議院だのあれほど彼が馬鹿にしていた選挙さわぎとなってから、談志とのあいだは疎遠になった。権力欲だけが、彼の最大の欠点だったように思う。     合掌
 


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ