市川右近・笑也・笑三郎・猿弥・春猿等21世紀歌舞伎組の連中はがっくりと肩を落としているに違いない。国立の歌舞伎研修生から猿之助一門に身を投じたのは、当時歌舞伎に巣食う門閥制度に反旗をひるがえし、新しい歌舞伎の旗を立てた市川猿之助の夢に胸をつかれたからに相違ない。血脈にめぐまれないが、それでも歌舞伎の舞台に立ちたいという若者たちがスーパー歌舞伎の旗のもとに集まった。
そして今、猿之助は2代目猿翁となり、市川亀治郎が4代目猿之助を継ぐ。断絶していた香川照之が市川中車となり、その長男が市川団子となる。5代目猿之助への布石がひかれた。
やっぱり歌舞伎は門閥の想いを強くしたのが、今回の襲名発表だった。いつか門閥制度を破って君たちに光があたるようにしたい、といった猿之助の言葉は嘘だったことがはっきりした。やはり歌舞伎は名門に生まれなかったら一生浮かばれない世界だということが、改めてはっきりした。
志を抱いて国立の歌舞伎研修生になり、幾星霜をかさねてきたが、所詮スーパー歌舞伎の馬の足だつたことが、現実としてつきつけられた。
モーリス・ベジャールの21世紀バレエ団に感動し、いつかこの国の伝統歌舞伎に革新の風をと結成された21世紀歌舞伎組もいっときの思いつきだったのだろう。ヤマトタケル、雪之丞変化2001、まではともかく梅川忠兵衛、義経千本桜、勧進帳、白波五人男ときては、21世紀歌舞伎組もその存在理由を問われるところまできていた。猿之助の健康上の理由とはいえ、300年の歌舞伎の歴史に逆らったひとつの試みが挫折の節目を迎えたことに間違いはない。
南軽井沢に作られたキャベツ畑のなかの広大な稽古場に、ぺんぺん草が生えないことを祈るばかりだ。
スーパー歌舞伎の挫折とまやかし
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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