スーパーカブキの現状と行方

by

in , ,

 昨年5月には76歳の段四郎が自殺した。そして9月には兄の猿翁が83歳で他界した。
 段四郎の長男猿之助は、自殺ほう助の罪で逮捕され、起訴、判決後、執行猶予の身で謹慎中である。
 この不幸のさなか、香川照之こと中車が中心となり「澤瀉屋 送る会」が開かれた。
お別れ会.jpg
 「送る会」とはいえ、中車としてはようやく望みを遂げたといえるだろう。
 息子の團子を中心にすえ、自らの立ち位置をゆるぎないものにできたのだ。
 澤瀉屋一門の真ん中に座ることが出来た。
中車.png
 「あなたは息子ではない。帰りなさい。」初めて父親先代猿之助に会いに行ったとき、玄関払いをくらった。実母浜木綿子との間になにがあったか、知るべくもなかったが、とにかくテレビや映画に専心していた香川照之を受け入れることはなかったし、あわよくば歌舞伎俳優に転向したいという自信の夢もほとんど絶望的と思われた。
 が猿之助の老いにより猿翁となり、叔父段四郎の息子が猿之助を継ぐことになつた折、チャンスはやってきた。
 みずからは中車の名跡を継ぎ、息子に團子を名乗らせ、澤瀉屋一門への入門が叶ったのだ。
 が香川照之が中車になっても歌舞伎のご贔屓をつなぎとめることはなかった。テレビでは通用しても歌舞伎の俳優術としてみるに堪えないほど下手なのだ。振幅の広い派手な表現をすればするほど空回りし、舞台はしらける。テレビのファン層は騙せても、歌舞伎の客は騙せない。
 息子の團子は順調に育っている。謹慎中の猿之助が細かく面倒を見、指導した成果が実りつつある。
ヤマトタケル.jpg 米吉.jpg
 2月、3月、50日間におよぶ「スーパー歌舞伎・ヤマトタケル」の上演にふみきつた松竹だが、猿之助なき興行ではおぼつかない。宣伝をかねて、「澤瀉屋 送る会」を仕掛けたが、果たして中車、團子親子のものがたりで成果が上がるか、疑問符がつく。
 そんなことより團子と隼人の若さの競演、そして妖しいまでも美しい女方米吉を正面に押し立てて、新世代の歌舞伎役者誕生としてアピールしたほうが、明日の客層に受けるような気がする。いつまでも看板順だけにこだわっていると、興行そのものがかび臭さを発散させてしまうのだ。
 
 


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ