東洋一の大劇場だった国際劇場が閉じられ、SKD松竹歌劇団が解散して何年たったことだろう。
この間松竹から見捨てられた歌劇団生徒たちのなかから、いくつかのチームが生まれ、レビュウの灯を消したくないと小さな公演活動が続けられてきた。なかでももっともパワフルに活動してきたのが、千羽ちどり・高城美輝・明石薫・銀ひ乃での四人組で運営されてきたSTASと呼ばれたスタス・レビユーだ。 一昨年、千羽が辞めて、解散かと思われたが、残った三人のレビュウ馬鹿は、あきらめなかった。浅草公会堂から舞台を六区のゆめまち劇場に移して公演をつづけた。
ショウの聖地ラスヴェガスにたとえれば、いわゆるラウンジ・ショーの規模だが、ショーそのものの鮮度や新しさにおいて絶えずリードしてきたラウンジ・ショーの如く、コンパクトにショウ・アップされた表現は独自なショウ空間を創ってきた。
中途半端な舞台装置がなくなって照明と音響だけになり、かえって訴求力がました。照明の色彩感や音響のバランスにおいては、大劇場のクセがまだ残って今一段の研究がまたれる。LEDが多用できる時代になり、エッジのきいた照明により自由自在に空間がつくれるようになったのだから、より振付とがっちり4つに組んだ舞台創造が待たれる。
ようやく慣れてきたゆめまち劇場から次は花屋敷の花劇場に公演の場を移すと発表されたが、花屋敷の遊客にあまり媚びるとつまらなくなる。
今回の公演の印象をひとことで表現すれば、ウェルメードな大変よくできたショウといえる。スタスの三人組はラウンジ・ショウの作り手として職人の域に達したといえるかもしれない。
この世界都市東京に毎夜ショウを上演するクラブや劇場がいっけんもないのは、とても不思議なことだし残念なことだが、クリエーターとしてどこまで生き残れるかは、経済的背景の充実と、スタッフの創作態度・世界観にかかっている。つねに錆びつかない現代感覚とレトロな懐古趣味のビミョウなバランスの上に、ショウビジネスはなりたっている。スタス創作のの中軸はそれぞれ微妙な年齢になっていることが気懸りだ。レビュウが好き、踊りたい、だけでは解決できない問題が立ちはだかっている。
春日宏美とともに国際劇場最後のスターだった久美晶子が、後輩たちの舞台をいちども観たことが無い、というので誘って共に見たが「あたし達の舞台も、こんなに素敵だったのかしら。感動したわ。」
在籍中いつも辞めたい辞めたいといっていたマドンナ、あの久美晶子のツブヤキだった。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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