戦後はじめの下着やは銀座6丁目並木通りの角にできた「ジュリアン・ソレル」だった。
その店にはハリウッド直送のピンクのショーツやランジェリー、フランス渡りのブラ、ガードルなどが飾られ、横文字かぶれの女性やら、銀座超高級オミズが出入りしていた。鴨居羊子などという怪しげなデザイナーが登場するずっと前の話である。
ある時ジュリアン・ソレルのオーナーがお店の西側つまり並木通りに沿った処に、お洒落なカウンター・カフェをつくった。大きなガラスで並木通りを歩くカップルからは丸見え、暗い灯りの名曲喫茶が流行っていた時代に画期的なカフェだった。いつも目の前の並木通りには派手なアメ車やジープが止まっていた。駐車禁止もなく銀座のそこここに車が止まっていた時代だ。
「並木通りのジュリアンにいるから……」とは、放課後待ち合わせのサインだった。
コーヒーにうるさい輩は、あずま通りのトリコロールに集まった。小さなエクレアをたべコーヒー談義に華を咲かせた。店頭にはいつもフランス国旗がひらめいて外国気分に充たされていた。
土橋通りの電通に初めて小さなスタジオができた。民放ラジオの始まりは、この電通スタジオと、博報堂の屋上にできたバラック風スタジオと、有楽町駅前毎日新聞社屋に隣接したプラネタリウム・スタジオだつた。みんな狭い不自由な空間で、連続放送劇やドキュメンタリーの収録にはげんでいた。
電通の打合せはいつも土橋通りを渡ったところにある銀座ウェストだった。ウェストは妙に清潔で上品な空気がただよい、ラジオ番組の打合せにはいまいちシックリしなかった。
有楽町にアマンドが出来たのもその頃だった。元宝塚の麗人がキャッシャーをつとめ、オーナーの滝川さんの愛人だという噂に尾ひれがついて評判となった。越路吹雪も寿美花代もタカラジエンヌも、帝劇、日劇のスタッフもみなアマンドで終電までたむろしていた。
帝劇も日劇も宝塚も舞台稽古のとき、必ずアマンドからパルミパイとコーヒーの差入れがあった。稽古の合間にみなロビーのテーブルに群がってアマンドのコーヒーとパルミパイに癒された。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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