ジャンボ・ジェットとモデルと人間国宝と

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 「ボーイング747」通称ジャンボが遂にラスト・フライトを迎えることになった。
 1971年ジャンボが初めて日本の空に来た時の驚きは、今の人には理解できないかもしれない。
 その広さ、大きさ、すべての点でそれまでの旅客機のイメージを超えていた。飛行機が飛ぶ、というより、ビルが飛ぶ、という印象だった。
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 JALが香港路線にジャンボジェットを就航させることとなり、早速飛び込んできたのが、香港に向かって飛んでいる「ジャンボ機上でのキモノ・ショウ」、そして香港につき次第、ヒルトン・ホテル ボールルームに於ける「日中競演の歴史衣裳と民俗音楽晩会」の演出だった。
 その時ゲストとして同行してくれたのが、今では人間国宝として最高の地位にいる笛の藤舎名生さんと鼓・大鼓の堅田喜佐久さん、30人編成の中国民族合奏団を向こうにまわして一歩もひかず、能管と大鼓の演奏のダイナミックかつ繊細な表現で観衆を圧倒した。
 日本の衣裳文化の絢爛たる魅力と、若き日の二人の人間国宝の迫力が香港の話題をさらったのだった。爾来、名人との交友はボストン美術館、ニース、モスクワ、フェスティバル、軽井沢と続いた。
 たまの休みにロールスロイスで現れる名生さんの人気は、モデル達の間で異常に高く、モデル同志「名生さんに近ずくと妊娠するわよ」と牽制しあっていた。
 さてジャンボ・ジェットのショウでは、アッパーデッキの一等席が活躍、15人のモデルの着替え室と化し、兼楽屋でもあったので若き日の藤舎名生さんにとってはさぞ天国であったに違いない。
 いまではすっかり枯れてしまった名人人間国宝に、747のフィナーレが重なり、人の世の儚さを感じる。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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