サッカーに血迷ったその先

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 サッカーW杯カタールで日本チームがクロアチアに負けた。
 八強への夢は冷や水とともに消え去った。 
 これでようやくメディアに蔓延していたサッカー熱も少しは平静さを取り戻すことだろう。
 ここに至るこの国のサッカー報道は、異常といえるレベルだった。
 オリンピックの波についで、サッカーの大波に乗せられた哀れな日本国であった。
 サッカーの勝敗がこれほど国民の熱狂を左右するとは思ってもいなかった。
 第二次世界大戦で日本が負けた時、マッカーサー司令部は対日民衆政策として二つの柱を立てた。
 第一の柱は芸能娯楽の奨励によって、日本人の伝統的な精神文化の破壊を目指す。
 第二の柱はスポーツへの関心を助成し、肉体的ストレスの解消を目指す。武士道をスポーツで洗脳する企みであった。
 この二つこそが、日本人の精神文化を破壊し欧米先進国の植民地として、日本を再生する最上の策として執行された。
 神道国家を否定しキリスト教道徳による武士道思想の排除というのもあった。
 これは秋篠宮家の二人娘のキリスト教教育によって見事具体化し、天皇一族への不信という形で実を結びつつある。
 敗戦から半世紀以上たって、マッカーサーの政策が実を結ぶとは、眼の前の現実に慄然とする。
 戦争に負けたという現実が、今日の軽佻浮薄を作り出している。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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