ペール・ラシェーズの墓地で偶然にであったのが、コレットの墓だった。
フランスの女性ではじめて国葬になったのはシドニー・ガブリエル・コレットである。国葬になったのだから、政治家と思ったら大間違い、彼女は性の解放を叫んでみずからも実践した作家であり、踊り子であり、美容家であり、思想家だった。
彼女は父の仲間と結婚し、その息子と再婚し、彼のガールフレンドと同性婚し、離婚して…数え上げたら
きりのないほどの恋愛遍歴を重ねた美しき才媛だった。
ジャン・コクトーは甘美なる怪物と評し、彼女の愛を断れる男性も女性もこの世にはいない、とまでいった。
代表作ジジの映画化にあたっては、ハリウッドの映画スタディオで、オードリー・ヘップバーンを一目見て気に入り、当時全く関心を呼んでいなかった「中性美」を世界の流行のアイコンにしたのもコレットだった。
幼少期にはショパンの愛人だつたジョルジュ・サンドの著作によみふけり、男装の麗人といわれたサンドの
影響も多大に受けているといわれている。
パリ・オペラ座からの委嘱を受けて書いた台本に、作曲家ラベルが惚れ込み、生まれたオペラが1925年初演の「子供と魔法」。先年、松本で上演した小澤征爾指揮の「子供と魔法」がグラミー賞で「最優秀録音賞」を受賞して話題になったが、脚本のコレットについてはスルーしていたのが、日本の音楽界だった。
過ぎる年、石渡潔主宰のキヨシネットワークの創作テーマに「コレット」を提案したことがあったが、テーマ・モデルとしてキャスティングしたアイドルコメットさんの大場久美子のワガママブリが、いまだに記憶の片隅に残っている。無思想な少女に、コレツトのイメージを要求したほうが、間違っていたのだろう。
近年フランスの女性思想家といえば、サルトルに愛され、サルトルに嫌われたボーボワールのことがとかく話題になるが、このガブリエル・コレットこそが性解放の先駆者だった。
コレットの墓には、枯れかかった薔薇の花が一輪捧げられていた。
コレツト・時代を先取りした愛の殉教者
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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