クレージーホースが危ない

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 21世紀になってからの新旧交代、技術刷新、世代交代は目まぐるしく進んでいる。芸能のジャンルでも、次々と新しい顔、新しい表現が登場し目まぐるしいばかりだ。
 かってかかわっていたレビューの世界もまた新しい波に見舞われている。
 第二次世界大戦後、レビューの全盛期があった。東京では有楽町駅前に日本劇場、日比谷の東京宝塚劇場、そして浅草の国際劇場、ときに帝国劇場、江東劇場、新宿コマ劇場など加わって、レビューの華を競っていた。
 劇場だけでなくレビューはあちこちのグランド・キャバレーでも上演されていた。銀座のミマツ、白馬車、クラウン、ショーボート、あるいは赤坂のミカド、紅馬車、デビ夫人の働いていたニューラテンコーターなど、みな夜のクライマックスはショウ・タイムだった。
 その頃の世界のレビューは、ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージックホールを頂点に、西はラスベガスのショウ・ビジネス、東はパリのムーラン・ルージュ、リドをはじめとするレビュウ、が燦然と絢を競っていた。
 それらのレビューが衰微の道をたどった最大の理由は、テレビの普及とジャンボジェットによる大量輸送が原因になったと考えられる。ジャンボジェットの普及はそれまで憧れだった海外に自由に行けるようになり、レビュウ舞台で繰り広げられるラテンやスパニッシュやフラメンコより、ずっとリアリティのある現実にふれることにより、舞台の虚構に観客はあきてしまった。そしてテレビのカラー化により、さらに現実よりキレイな景色がみられるようになった。 もはやレビュー劇場の役割は終わってしまったのだ。
 それでもパリとラスベガスには、いくつかのレビュ―劇場が頑張っている。
 各ホテルごとに劇場のあるラスベガスは、ディナーショーという形式でショーを上演してきたが、シルク・ド・ソレイユの登場以来、より観客の入るグランドシアターに切り替え、人手と厨房のいるディナー・ショーは閉鎖、スポーツ・カジノとシルク・ド・ソレイユにほとんどが変わってしまった。
 パリでもリドとムーランが観光客専門のレビューに変わり、かってイギリス娘とフランス娘がきそっていた舞台の熱気は何処かえいってしまった。辛うじてダンサーの魅力で人気を呼んでいたクレージーホースも、最近は照明や映像にひきまわされ、踊り子それぞれの魅力は消滅しかかっている。
 大人の魅力にみちたクレージーホースには、なんとか踏みとどまって欲しいと願うばかりだ。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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