オモシロいという堕落

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 山藤章二さんから新書が送られてきた。山藤さんの本だから、当然のごとく「カラー版似顔絵」の続編と早合点し、岩波の袋から取り出した。 …どこにも絵がなかった。 
 画家の本に絵がなく、活字だけの「へたうま文化論」。さすがウンチクマンガの巨匠、いまどきの面白さについて、ヘタからウマイへの生涯目標に、オモシロイの第三極が登場したことへの鋭い考察が綴られていた。
 山藤さんとの交流は、半世紀前に遡る。 今の六本木ミッドタウンの隣に、ナショナル宣伝研究所なるビルがあり、そこに若き日の天才二人がいた。ひとりは横尾忠則であり、もうひとりは山藤章二だった。
 時を同じくして市ヶ谷のお堀の畔に、初めて女子の美しさにチャーミングという思想を持ち出した学校があった。そこのマドンナが天才と恋に堕ちた。相手は背が高くイケメンの山藤章二のほうだった。
 彼女はデザインなるものを自家薬篭としたイラストレーターの女房になったのだ。そのエニシにつけ込んで、テレビのタイトルを描いて欲しいと頼み込んだ。
 美術のタイトル課には大勢のスタッフはいたが、初期のタイトルに、デザインの思想はなく、縦に書くか、横に書くか、明朝か草書体かぐらいの素朴な時代だった。 批評文学であった星新一のショートドラマのタイトルを描いて欲しいと頼み込んだ。ワイドショウのはしり、木島則夫モーニングショーのタイトルや大道具のデザインも快く応じてくれた。
 お蔭で社内のデザイナーや美術局からは随分に恨まれた。なんで山藤章二なのか、と食ってかかるデザイナーもいた。 がみんな彼の才能のまえに沈黙した。いまでもあの山藤さんのタイトルで眼が覚めたというスタッフがいる。良き時代の、志あった時代のはなしだ。
 ところで「オモシロイ」という価値観だが、お蔭でこの国の民度は坂道をころがるように落ちた、と認識している。子供たちまでが、先生の授業を「オモシロクネェ」といって切り捨てる、当り前だ、学校は寄席じゃないから、まずつまらない勉強を超えてこその学校だ、と逆襲する教師もいなくなった。
 かくてオバカだらけの卒業生が巣立っていく。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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