ウクライナのひまわりの下に

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 キエフから南へ、ここヘルソンの村にひまわりの花がどこまでも広がっていた。
ひまわりの花はウクライナの国花、そのひまわりの花のあいだをひとり彷徨い、戦争にとられた恋人をさがし歩くソフィア・ローレン、ひまわりの花畑の下には無数の戦士や捕虜が埋められていた。
 1970年名匠ビットリオ・デ・シーカによって創られた映画「ひまわり」のひとこまである。
 ウクライナの名前が戦争の悲劇とともに記憶に焼きついた初めての映画だった。
 いまあちこちの小さな映画館で「ひまわり」が再上映されている。同じひまわりの花を国花とするロシアの侵略に対して、怒りとともにデ・シーカの名作を見るのも心の反戦運動かもしれない。
 戦争の犠牲者が埋められた大地のあとに、なにも知らない美しいひまわりが咲く。そこにある人間の悲しさ、戦争の皮肉をこれほど美しい風景のなかに描いた映画を他にしらない。
 三回にわたってウクライナとロシアの休戦会議がひらかれた。 
 罪のない市民を戦場から退避させるため「人道廻廊」を設置するという合意は成立したが、ロシア側から提案された「人道廻廊」は皆ウクライナ五都市からバスでロシアに向かうルート、ひとつだけロシアの同盟国ベラルーシへ向かうバスだったと、フランスF2のニュースは伝えている。ウクライナの人々はロシアへ行けば何をされるかわからない。死の人道バスだと誰も信じていない。
 世界中にはためく、ひまわりの黄色と平和の青空、ウクライナの国旗がむなしい。
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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