インドを走る新幹線

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 インド西部、商都ムンバイから工業都市アーメダバードの505キロ区間を日本の新幹線が走ることとなった。
 アーメダバードのあるグジャラート州は、モディ首相の出生地でもあり、インド政府肝いりの国家プロジェクトでもある。
 当時JRグループは蓄積された新幹線技術を輸出せんと、あちこちにアプローチしていたが、ことごとく中国の無償供与に先をこされ、負け続けていた。
 2015年にはインドネシアを中国に持っていかれ悔し涙をながしていたが、インドネシアでは着工時期は遅れ、さらに契約金額への追加やらなにやらでトラブル続きであった。中国の無償供与とは名ばかりで実は理屈をつけて金をださせるという商売であった、ということが判ってきた。
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 そしてインドとの契約が成立したのだ。
 日本は新幹線の着工と同時に、保守・点検の人材育成のための研修所を設立。インド人による新幹線維持のための学校設立から始めた。運転台のシュミレーターを日本から運び、保守管理スタッフ3500人の教育から始めた。出来上がったらその後のスタッフは中国から派遣するという習近平のやり方とは全く違うのだ。ここまで来てインドもようやく日本のビジネスの誠実さに気がついたのだろう。
 広大なインドではこのムンバイ線が成功すれば、次々と路線拡張が計画されるにちがいない。
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 ヨーロッパにおける鉄道王国ドイツのミハエル・ピーターソン来日の折、日本の新幹線を視察してもっとも驚いたのは、人口過剰の国にもかかわらず秒単位の運行を実施し、1分の狂いは遅延扱いになるという現実だった。ドイツではプラスマイナス6分までは、定時運行という扱いなので、鉄道の時間意識の違いについて驚いたのだ。
 日本人の几帳面さはそんなところかと、少しばかりがっかりするが、カーブが多く自然地形からの高低差も大きい日本で、世界一の定時運行率というのは誇っていいのかもしれない。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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