高畠華宵による中将湯のポスター、或いは与謝野晶子のみだれ髪の表紙などでなんとなく目にしていたが、ある時、ビアズレーのサロメの絵を見てショックを受けた。ミューシャによるジャンヌ・ダルクの芝居のポスターも凄かった。以来アールヌーボーにこり、ガウディのサクラダ・ファミリアによって決定的な価値観に憑りつかれてしまった。
1900年、パリ万博の会場として建設されたグラン・パレは、アールヌーボーのシンボルのような巨大な存在だが、ガラス天井の大空間は貸しホールとなり、一日数百万円の料金でファッション・ショウ等が開かれている。グランパレに会えないときは、ギャラリー・ラファイエットの吹き抜けの大天井を仰げばいい。隣のプランタンの最上階のカフェ天井もアールヌーボーの見本のようなデザインになっている。
パリの街を支えている地下鉄メトロの駅も、すべてアールヌーボー様式で作られたが、現在残っているのは二つだけ、ダリが「神々の入口」と評したままの表情をたたえて、パリジャンの日常に利用されている。
貴婦人のスカートといわれるガラスのひさしを広げたポルト・ドーフィヌの駅は、お金持ちの住む16区のブーローニュの森近く、オナシスやロスチャイルドがブーローニュへ通った途中の広場に端然と残っている。もう一つはモンマルトルの中腹、あのジュテームの壁の隣のアベス駅だ。両方ともエクトル・ギマールによって造られた典雅な街中のアールヌーボー駅といえよう。
住宅のアールヌーボーは、やはり富裕層の街16区に圧倒的に多い。
代表作といわれる鉄の扉のカステル・ベランジェ、フォンテーヌ通りのメザラ館、モザール通りのギマール館、赤い庇のカフェ・アントワーヌなどセーヌの東側に集まっている。この辺りは、街の通り名のプレートもみなアールヌーボー様式の文字や装飾が使われていて、のんびりと歩きながら見ると意外な発見がある。
パリの街角ウオッチングでは最高、美術館のなかのアールヌーボーとは格段の差がある。この町の素晴らしさはこうした芸術が生活に生きている、ということに尽きる。
アールヌーボーの残照
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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