自動車免許を取ったのは外車だった。シムカのアロンドという車で操縦を習った。ムーラン・ルージュのあるブロンシェの広場に面して自動車学校があった。学校のあるビルの前にいつも数台の車が止められていて、ときの気分で好きな車にのって習う。モンマルトルの坂道をいきなり走らされて冷や汗をかいたこともある。。法規は紙に路がかかれた大きな絵地図をまえに、女の先生が模型の車を手にウウゥと擬音を発しながら紙上の道を走る。交差点、踏切、一方通行などに遭遇すると生徒に対してウインクが飛んでくる。ゴー・ストップか、ウィ・ノンを答えればよかった。
帰国後、始めての車はブルーバード、お尻が大きく少し下がったユニークなデザイン、何台かの国産車を乗り継いで、ケンとメリーのスカイラインになった。その時スピードに目覚めた。アメリカ女に唆されて、ジャパニーズ・ポルシェと呼ばれていた真っ赤なフェアレディにのっていたこともあった。
ファッションに携わっていたころは女子大生にもてたソアラだった。その後軽井沢に居を移し、祭りを取材して歩くようになると、レガシー、フォレスター、アウトバックともっぱらスバルの四輪駆動の世話になった。山のなかでのトラブルが恐かったので、国産車以外には乗らなかった。50年代、60年代の外車はいちいち部品の取り寄せが香港だったので、故障すると一週間十日は当たり前で工場入り、その恐怖をひきずって外車に関心を持たなかったのだ。
ふとしたことでスバルの四駆に比べ、アウディのクワトロもなかなかのものと教えられた。ヴォーグの紙上からメルセデスが消えアウディが毎月登場するようになった。かってモデル達のパパと呼ばれていた梁瀬次郎さんを思い出しながらアウディのオールロード・クワトロを注文した。さすがドイツの車だけあって精緻を極めた造りと駆動系には脱帽。半世紀ぶりの外車だが、車高をやや高くしてコスル心配もなく山岳ドライブも安心、すこしばかり前衛的な顔つきと軽井沢向きの性能に満足している。
アウディ allroad quattro
コメント
1件のフィードバック
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大変ご無沙汰しております。
代官山から居を移して10年以上経ちますので…
転居のお知らせもせずに失礼を致しました。
昨年末より楽しく拝見させていただいております。
お元気そうでとても嬉しく思っております。
お身体大切になさってくださいませ。
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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