わが人生のプラネタリウム

by

in ,

プラネタリウム.jpg
 それは有楽町の駅前にあった。
 毎日天文館と書かれていた。毎日新聞と同じぐらいのおおきさだった。東京に初めてできたプラネタリウムは、宇宙へ旅することの出来る子供にとって夢の世界だった。
 丸いドームを見上げていると、天空の矢印が南十字星から北斗七星へと導いてくれた。季節が変わると宇宙もかわるということを初体験した。
 宇宙旅行など誰も想像しなかったあの頃、プラネタリウムは未知の世界をみせてくれた魔法使いだった。
 1951年にラジオ東京が開局することになった。劇団ユニットでドラマ収録の依頼をうけた。赤坂のスタジオはまだ出来ていず、毎日新聞社内に居候していた。今日のスタジオはこちらです、と案内されたのが、かって未知の星空に興奮したプラネタリウムの跡だった。東京大空襲で被災したといわれていたが、そこに丸天井も椅子も残っていた。廃墟となったプラネタリゥムで、どんな番組を収録したか忘れてしまったが、狭いスタジオよりはるかに幸せだったことを覚えている。
 廊下ではソニーの前身…東通工のテープコーダーを相手に、ずらりとならんで編集していたディレクターがいた。
 狭い廊下にメディアの明日がつまっていた。
 1957年に渋谷東急文化会館が駅東口にできた。その屋上に五島プラネタリウムができた。母と子の天文教室とか、星と音楽の夕べとか意欲的なプログラムを展開していたが、星と文学がないと抗弁し、当時の学芸員だった野尻抱影先生を動かして短詩系文学をセレクトし、四季の星空と詩の世界を演出した。世界最先端のプラネタリウムを小道具にしてのポエティカル・シアターは面白かった。
 今プラネタリアTOKYOなどのヴァーチャル映像や、ツィンドームの星空体験をみるにつけ、わずか7.80年のあいだにここまで変貌したプラネタリゥムに、やがて宇宙軍の戦闘が写しだされるのではないかと、心配はつきない。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ