やっと恵比寿がきた

by

in

やっと恵比寿がきた
 住みたい町ランキング第一位に「恵比寿」がなった。
 吉祥寺が陥落したと、メディアはかいている。
 が我らの青春時代は、住みたい町ではなく、送って行く町ランキングの第一位だった。JR恵比寿の西口広場から左の坂を登っていく…ややあって左へ曲がったところに目的地はあった。宝塚歌劇の生徒たちが東京公演のさいに泊まる寮がそこにあった。子供たちを送り届けるような気分で恵比寿まで車を走らせた。数えきれないほどの花束のひとつを残して、降りて行った彼女たちの残り香りとともに帰途についたことも幾たびかあった。
 ビール会社の占める位置があまりにも大きく、長い間恵比寿はビールとお屋敷とアメリカ村の中途半端な町だった。駅から動く歩道が長々とでき、デパート、ホテル、オフィス街などの界隈が出来た頃から恵比寿の核がすこしずつ育ってきたような気がする。
 広尾、代官山、中目黒に隣接してそこには当然のごとく、大人の町が出来てきた。渋谷では少しばかり軽くなる、恵比寿ならいいわという友もいた。
 山手線のなかで女性客の乗降率がもっとも高いのが、恵比寿というのもうなずける。
 フレンチひとつとっても、あの格調高いロプションがしっかりと根を降ろしているし、近頃のヌーボー・フレンチもあちこちにある。ミシュランの三ツ星から一つ星、ちょつとこった居酒屋まで重層的にあるのが恵比寿という町でもある。表面飾りたててはいないが、若い新しい感性の店が多い。
 ヒイキの店を持つなら、今は恵比寿なのだ。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ