帝劇文芸部にいた頃、秦豊吉支配人に言われ、しばしば宝塚歌劇に出張させられた。
当然、生徒たちの稽古に立ち会ったし、その後の果てしなく続く自主稽古にも付き合った。当時から上級生の下級生にたいする指導は過酷を極めていたし、それでも翌日には「指導が足りていない」と叱責され、「マインドがない」とヒステリックに怒鳴られていた。
下級生をぐるりと取り囲んでの「フェルマータ」も「ドーナツ」も、今風に言葉を変えれば、「集団リンチ」だし、ハラスメントだった。
それでも歌劇を好きな生徒たちは、じっと耐えて稽古を重ね、衣裳をつくり、小道具をつくりながら安月給にたえて日々を送っていた。
阪急経営部の男性陣と歌劇団各組の女性陣、一つ屋根のもとにいながら全く異なるジェンダーの不思議なバランスは、ひとえに小林一三という偉大な経済人による魔法の組織力だったような気がする。
比較的裕福な家庭の子女を集め、「清く正しく美しい」キャッチのもとに洗脳してレビュウ興行を展開する。雪、花、月の三組興行のあたりまではよかったが、星から宙組と膨らんでくるに及んで、すこしずつ時代とのズレが目立ってきた。
圧倒的に美しかった憧れの男役より、街角の男たちのほうがお洒落になり、歌劇の舞台に通用していた美意識が劣化してきた。価値観の固定化した一部オールド世代の評判だけが頼りの興行となってきた。それでも幼い美意識の観客は永遠に続くので宝塚歌劇はまだまだ大丈夫と思っていたが、破綻は思わぬところから噴き出した。
新人公演「長の期」を担当した生徒の投身自殺である。
そも新人公演とはなにか。後輩生徒のなかから「明日のトップスターの卵」を見付けるのが目的である。容姿、技術、人気、すなわちチケットの販売能力があるかどうか。この経済的側面こそが阪急経営部にとってもっとも重要な点なのだ。宝塚経営にとって非常に大きな役割をになっているのが「新人公演」なのだ。本公演のなかを抜いて必ず新人公演を掛けるのは歌劇の永続にとって必要な条件になっている。
一方、現役のトップスターにとってはライバルの登場となる。マウンティングの標的登場である。少しでも美しく、巧く、恵まれていたら、許すことはできない。嫉妬は憎しみになり、イジメとなり、パワハラとなる。ライバル意識が女の嫉妬に変わった時ほど恐ろしいものはない。
とくに感情の起伏の激しいトップスターのもとの下級生はひどい目に遭う。恵まれて育ったお嬢さんは耐えられなくなり、劇団を辞めるか、ついに自殺することは充分想像できる。
すみれの花が散った宝塚
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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