軽井沢の西に江戸期の宿場そのままに追分という集落がある。
なにかというと明治以降のキリスト教神父たちによるリゾート発見しか言わない軽井沢にあって、江戸期の宿場習俗にこだわっているのが、この追分地区である。
「しなの追分馬子唄道中」このまつりは毎年7月下旬の日曜日に催される。
碓氷峠から浅間根腰の三宿を往来する馬方たちの仕事唄に発する唄道中がテーマだ。隣の小諸にも追分節に発する小諸節の伝承行事は開かれているのだが、軽井沢のそれははるかに素朴な追分節である。
伝わっている追分節には、ふたつの流儀があり、ひとつはいかにも馬子唄風な「油屋派」、そしてもうひとつは三下がりがつき座敷唄となった「永楽屋派」、道中祭りでは陰々滅滅たる油屋派の追分にのって、風俗行列が宿場の道を行く。
子供たちは神輿をかついでワッショイわっしょいと元気がいい。神輿の屋根には珍しくオカメが八方に付けられ、追分ならではの歴史を感じさせられる。中山道のこの宿場は飯盛女によって評判をよび、旅人たちの疲れを癒したと伝えられる。
…… 軽井沢 大夫燃え立つ 茜うら …… 去るほどに 恋も布団も 軽井沢 ……。
往きは油屋派の馬子唄で、帰りは永樂屋ふうの陽気な追分ともなれば、祭りも随分楽しくなると思うが、土地の古老たちの趣味でそうもいかない。
それでも祭らしい祭りの無い軽井沢にとっては貴重な馬子唄道中なのだ。
日本海沿岸を北上して越後追分となり、酒田追分から本荘追分、海を渡って松前追分、江差追分と、この国の追分の元祖こそがこの「しなの追分」とあれば、明治以来の別荘などよりははるかにこの国の民俗に貢献した「しなの追分」文化なのだ。
なんとかサミツトより「おいわけサミット」のほうが、はるかにリアリティがある。
しなの追分馬子唄道中に想う
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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