こぶしの花の咲かなかった街

by

in

 雑木の重なる高原の林の中の、どこにあるのかよく判らない。
 ここで咲かせるぞとばかり、存在を主張しているのは桜の木、知らずに傍に近寄った花木はたちまちに枯らしてしまう。根性も花色もあまりよくないのが、染井吉野と持て囃される改良種である。
 暖房ともそろそろお別れかなと感じたころ、見渡す限りの冬木立のあちこちに純白の花が姿を現わす。群れをつくらず、ぽつんぽつんと自立しているが、梢いっぱいに咲かせる、六枚の花弁がたおやかな表情をもった香木である。昨日まで気がつかなかったのに、こぶしは白い花とともに、あぁここにあったと、きずかせてくれる春の使いだ。
 ラジオから「…こぶし咲く あのふるさとへ帰りたい」と流れてきたが、六本木ではファンタジーだった。軽井沢に住むようになって始めて、こぶし咲くあの故郷の春が現実となった。
 「遠近(おちこち)に 辛夷灯りて 山の暮れ」(千手和子) 
 何もない荒涼とした浅間山のふもと、追分には昔から「遠近の里」と呼ばれていた集落がある。
 「風立ちし 辛夷の花に 紅はしる」(高島茂)
 花弁の根元にうっすらと紅がさしている。浅間下ろしがしばしば高原を走る。
 「末っ子に ガールフレンド 辛夷咲く」(小林成子)
 やがてくる命の春のこぶしに、初恋の景色がまばゆい。
 こぶしの花の咲かない年は、不安な年と言い伝えられてきたが、東京にはこぶしの花は咲かなかった。
 


コメント

1件のフィードバック

  1. 「遠近(おちこち)に 辛夷灯りて 山の暮れ」(千手和子) 
    軽井沢らしさが、伝わる名句だと 感激しました!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ