こけしやがサブカルの聖地だった頃

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こけしやがサブカルの聖地だった頃
 ヴァレンタインに、こけしやのオランジェットに触れた処、初お目見えの女子プロデューサーが、こけしやの焼き菓子を抱えて現れた。
 昭和20年代のこけしやには、チョコだの、マドレーヌだのといった小洒落れたものはなかった。看板には「珈琲と洋菓子 こけしや」とあり、鈴木信太郎画伯のオランダ娘のイラストが印象的な駅前喫茶だった。
 新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移って行く。それが常識だと言う者がいる。と井伏鱒二の荻窪風土記にあるが、 戦後、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺というのは、カウンターカルチャーの発信地でもあった。
 まだ住宅事情も悪く、貧乏文士や貧乏文化人はそれぞれ贔屓の喫茶店をもって、ひまをつぶし、コーヒーを語り、仲間と議論したり、出版社との待ち合わせに使ったりしていた。
 なかでもこけしやは、沿線文化人の拠点になっていた。電車の中から見え、駅30秒という立地の良さもあった。一階は普通のホール喫茶だったこけしやには、二階に座敷がふたつあった。オーナーの大石総一郎さんという早稲田マンが太っ腹で、チャタレー夫人の恋人で当たった伊藤整と語る会、山本安英夕鶴の会、大宅壮一の第二次世界大戦、など沿線文化人の集まりから、学生のレコード鑑賞会、或は囲碁、将棋の会までなんでも気楽に使わせてくれた。
 阿佐ヶ谷シナ料理のピノチオ、吉祥寺居酒屋闇太郎、そして西荻窪のこけしや、この三大スポットこそ中央沿線文化人のこよなく愛した空間だった。
 西荻には古本屋も多く、北口駅前には月賦の看板を掲げた丸井があったし、道具や、時代や、アンティークショップも多く、武蔵野美術、東京女子大、立教女学院、成蹊学園も近く、学生の青春は丹羽文雄、太宰治、三好達治、横光利一、与謝野晶子、林芙美子、井伏鱒二、上林暁、北原白秋、大宅壮一など時代に発言する沿線文士のアイコンの渦のなかで過ごした。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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