小唄、常磐津、河東節、哥沢,清元、尺八、長唄、端唄、一中節、ずらりと揃った旦那衆の邦楽演奏と、新橋芸者の立方揃い踏み、なかなかの舞台は新橋演舞場、旦那衆なかには女性衆もすべて銀座の大店のご主人、資生堂、ギンザコマツ、金田中、みずたに、壱番館、コシノヒロコ、それに松竹、ぎんざ長野まで加わり、夜の支配者アユカワ・グループの大ママまで加わっての豪華アマチュア一同が主役、第九十九回銀座くらま会であった。
そもそもこの国の風習として、商家の旦那衆は何らかの形で芸事にふれ、稽古に励み、その芸道のお師匠さんを応援するという習いがあった。
子供達も六歳六か月からお稽古事に出仕し礼儀から芸を学んで生涯の趣味とする、という日常稽古があった。
戦前までは当たり前だったことが敗戦によって中途半端な洋式レッスンへと変化し、ピアノ、バイオリン、バレエ、合唱、ダンス、などすべて西洋式マネゴトお稽古システムと変わった。
旦那衆の趣味もゴルフ、ギター、スポーツカー、競輪、競馬、カラオケ、ととっ散らかり、奥様方もハワイアン、社交ダンス、美容体操、ジャニーズへと変化して日本の芸能は全く顧みられなくなった。
北信濃には、いまでも北信流などとしょうして謡曲をひと節かわしてから宴を開くという習俗も残っているが、商家の旦那衆はもっぱらお金にゴルフで、全国にひろがっていた謡曲、仕舞のお稽古などは雲散霧消状態に近い。
そんな現状のなかで日本を代表するギンザの旦那衆が、きちんと日本の芸能に親しみ、芸者衆とともに年に一度のオサライをやっているのはお見事というほかない。
仁科恵敏さんも裏千家茶道の重鎮を務めながらギンザ長野の顧問として尺八の音を聞かせてくれた。60年来の友人として舞台を共にしてきた人間国宝の藤舎名生さんも老骨にむち打ち京都からかけつけ、ギンザの旦那衆の舞台を務めるという粋で上等な舞台であった。
コメント
1件のフィードバック
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金田中の女将さんとご主人には可愛がっていただいていました。
お元気そうで何よりです。
先生がお元気そうでとてもうれしく思っております。
情報ありがとうございます。
懐かしく拝見いたしました。
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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