お化け煙突からスカイツリーへ

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 処によって四本、あるいは三本、二本、一本に見えた、お化けのような煙突のある風景が、東京下町の空の風景だつた。墨田堤や江戸川の土手を歩きながら、ここからは四本、ここからは三本とどこまでも歩きながら、一本煙突に見える場所を探して夕暮れを迎えたのは、ついこの間のような気がする。振り返れば富士山が真っ赤に染まっていた。
 映画小津安二郎の「東京物語」や、五所平之助の「煙突の見える場所」がベルリン映画祭で賞をとった時、他人事ではなかった。それほど江戸っ子はあの四本煙突の風景を愛していた。だから東京タワーができたとき、展望台からみえたお化け煙突は感動的だった。東京電力千住火力発電所。
 そのお化け煙突が終焉を迎えたのが1964年、庶民の知らぬ間に、時代は石炭を棄て、油から原子力に向かっていった。煙突跡地にできた東電ビルの屋上には太陽光発電パネルが設置され話題を呼んだ。今にして考えれば、東電すら福島原発の事故を予測していたのかと、漫画のような話でもある。
 いま東京下町の空に再びシンボルが帰ってきた。東京スカイツリー。
 キエフテレビタワー385mを抜いて世界一のテレビ塔、ブルジェ・ハリファ828mに次ぐ世界第二位の人工建築物とかしましいが、この634mには異議ありだ。
 デザイン・コンセプトに…時代を超えた都市景観の創造、日本の伝統美と近未来デザインの融合とあるが、どこをさがしても時代を超えた都市景観はないし、伝統美も見つからない。ましてや近未来デザインなどどこにも見えない。コンサルタントの安藤忠雄や澄川喜一はサボタージュしていたとしか思えない。
 130年前に建設されたパリ・エッフェル塔の優美さ繊細さに遠く及ばない。五重の塔に通じる日本古来の建築美というお題目が色あせてみえる。日建設計という会社システムからは、歴史に残るような建築美は生まれないという事だろう。優れた人間の個性からしか、時空を超えた建築美は生まれない。組織や会社を第一とする日本人の思考システムが、この高いだけで面白みのない構造物スカイ・ツリーを生み出した。


コメント

2件のフィードバック

  1. 気になっていた事を、具体的に説明して頂きました。
    スカイツリーはカッコ悪いのです!
     おかげさまで、他に高い塔が出来ても、世界一品がないタワーの地位は、長いこと安泰です。
    東京タワーは、ライトアップの経験を積んでかなり絵になるタワーになってきましたが、スカイツリーは大変そうです。

  2. 気になっていた事を、具体的に説明して頂きました。
    スカイツリーはカッコ悪いのです!
     おかげさまで、他に高い塔が出来ても、世界一品がないタワーの地位は、長いこと安泰です。
     東京タワーは、ライトアップの経験を積んでかなり絵になるタワーになってきましたが、スカイツリーは大変そうです。

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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