いつもひとりだった山口小夜子

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いつもひとりだった山口小夜子
 「私はいま死ねる」 「明日でも死ねる」 「私はいつでも死ねる」山口小夜子のうわ言だった。
 杉野ドレスメーカー女学院というお嬢さんの多い服飾学校をでてモデルになっていたが、彼女のイメージから、幼い頃にみていた日本人形の幻覚は消えることがなかった。
 おかっぱにし、切れ長の眼を描き、漆黒のアイラインと、瞼にさされた紅で、彼女の化粧は完了した。
 そこに魅かれたのが、山本寛斎であり、三宅一生だった。小柄な彼女をショーのイメージ・モデルに起用し、パリへロンドンへ出掛けて行った。
 折から日本が経済力をつけ、戦後の欧米社会から注目されるようになった時期と重なったのだ。いまの爆買い中国と同じようなもので、五番街でもシャンゼリゼー通りでも、日本語の案内が目立ち始めた。
 そこに更に日本を主張し出てきたのが、小夜子の人形、小夜子のマネキンだった。小夜子のニッポンが、SAYOKOのNIHONになった。
 楽屋のかたすみで、ものいわず静かにボリス・ヴィアンの「日々の泡」を読んでいた少女が、ファッション界のアイコンになったのだ。
 モデルのむなしさを充分に知り尽くしていた彼女は、物ずくりに走ったり、テレビでカルメンを演じたり、クリエーターからパフォーマーとなり、最後には「私はウェアリストよ」と達観していた。
 恋はしたが、いつもひとり、愛の行為のなかでも心はひとりだった。
 マンションの孤独死から、友人によって三日目に発見された。
 いま東京都現代美術館で華やかに開催されている「山口小夜子展」に、小夜子のひとりはない。


コメント

1件のフィードバック

  1. ちょうど見に行きたいと思っていたところで
    ステージ上の彼女を見たことがないので展示されているといいのだけれどと思っているところです
    晩年クラブでDJをされていたようで
    ぜひ見に行きたかったと後悔しています。
    宇川直弘氏とは面識があるのですが…
    知っていたら話を聞きたがったのに
    今はクラブにいかなくなってしまったので
    もう話を聞く機会はなさそうです
    残念

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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