いざ討ち入りでござる

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忠臣蔵討ち入り.jpg
 いよいよ雪の十四日、赤穂浪士の討ち入りである。
 忠臣蔵には長い間日本人が大切にもち続けてきた精神のエッセンスがつまっている。それ故にマッカーサーはこの作品を上演禁止にしてきた。
復讐という主題は占領軍にとってこのうえなく恐ろしいテーマであったし、悔しさを押し殺しての緻密な行動、そのうえ敵を欺むいての覚悟が、戦後10年はみてとれたのだ。
 日本人が日本人であった時代の至高の物語、それが忠臣蔵だ。
 いま巷に出回っているのが「決算!忠臣蔵」忠臣蔵をコスパで考えようという映画だ。プロデューサーも監督も脚本家も全員腐っている。
 面白いからといって金男君ならぬ金蔵のはなしにしてはウオール街もびっくり、泉岳寺に眠る義士たちは全員泣いていることだろう。
「面白くなければテレビじゃない」といって我が世の春を謳歌したフジテレビの現状をみれば、結果は推して知るべし。日本映画の末期がみえている。
 筆者がいつも世話になっている写真工房フレームマンは両国吉良上野介邸跡にある。そばに吉良の首を洗った「みしるし洗い井戸」もあるし、道を挟んだ向かいには元禄二八そば・玉屋もある。玉屋では辛酸をなめた義士を偲んで、ピリッと辛い卵とじそばと、酸味のきいた天丼を組み合わせて義士御前としてだしている。
 大川屋には吉良まんじゅうと吉良せんべいがある。
 が忠臣蔵由来の菓子といえば、切腹最中にとどめをさす。浅野内匠頭切腹の岩沼藩お屋敷あとにある新橋新生堂からでている。いまでも取引先でしくじったサラリーマンのお詫びの手土産といえば、この「切腹最中」ときまっている。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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