あの頃は週刊ヒットチャートが注目されていた。ある日ふと気がついたらベストテンの歌手名があらかた英語の名前になっていた。
いつから日本は英語の国になったのかと憮然たる気分になった。あの頃からレコードは少しずつ売れなくなり、ついに今日の不況産業に仲間入りしてしまった。
日本電波塔株式会社がつくったのが東京タワー、英語ばやりのご時世では仕方がないとあきらめた。さらに立派な塔を作ると鳴り物入りで完成したのが、トウキョウ・スカイツリー。由緒ある業平橋は消え、駅はスカイツリー駅にと変身してしまった。
千葉にあるのにトウキョウ・ディズニーランド、大坂はユニバーサル・スタジオ、サンリオ・ピューロランド、次々とカタカナ文字が市民権を獲得、難解だが世界でもっとも美しい言葉といわれている日本語はどんどん隅に追いやられていった。
故郷で不遇をかこった日本語は海外に活路を求めた。スシ、テンプラ、サケ、カミサマ等々……先進国のインテリ層は日本語と日本字の美しさにひかれ、墨で書かれた日本字をみな欲しがっている。24文字の記号化された言葉には文化がない、使い勝手と便利さだけの味気ない言葉だと認識している。アメリカ人は墨文字の書かれたTシャツを着、ヨーロッパでは円相のある暖簾が喜ばれている。
そんな日本語ルネッサンスの流れのなかで、この程発表されたのが「高輪ゲートウェイ」、なんのこっちゃ、2020東京オリンピックめざして建設された山手線新駅の名前が「高輪ゲートウェイ」とは。シンプルな「高輪」がベストだが、どうしても何か付けたければ「新高輪」でも、「高輪口」でも、「高輪門」でもあったろうに、芝との折り合いがと言い訳するなら昔からの「大木戸」でもよかった。
多分JRのお偉いさんのなかに、横文字の回し者がいたにちがいない。美しい日本語の魅力をしらない東大出の官僚のようなオバカがいたのだろう。かって国電をE電となずけ、誰も使わなかったために消滅してしまった命名のごとく、皆で「高輪」しか使かわなければ、いつか「ゲートウェイ」は消えるのだ。
「高輪ゲートウェイ」に呆れる
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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