團十郎さんは、青葉台の自宅の稽古場に静かに眠っていた。
助六がつねに身につけていた「脇差」がそっと胸の上に置かれていた。
曽我五郎が助六に身をやつして、江戸中を探し求めていたあの「友切丸」、その友切丸を手にいれるためいつも身につけていた華やかな脇差が、團十郎さんの遺体に添えられていた。
歌舞伎には、いろいろな刀が登場する。南総里見八犬伝には、天下の宝剣「村雨丸」、籠釣瓶花街酔醒には妖刀「籠釣瓶」。今の人は単純にピストルだねと理解するが、天皇に伝わる「草薙剣」をみても解るように、太刀には高い精神性と象徴性がある。それ故、芝居に登場する刀も物語の狂言回しにとどまらない世界観が込められている。小道具を超えた小道具がそこにある。
あの「友切丸」を追い求めて、江戸一番の男伊達に身をやつし隠し持った「花脇差」に、故人の心情が重なっていたのだろう。
桜が咲き乱れる吉原仲の町を背景に、花魁道中が行きかう。花魁道中は日本の時代道中のなかでも外人が狂喜するナンバーワン。 ムーラン・ルージュでも、開幕の口上のあとに登場した揚巻道中にフランス人たちは、胸を衝かれたと好評だっだが、あの道中の華やかさを忘れさすほどの魅力にみちているのが、ムラサキの鉢巻で蛇の目を手に大見栄を切る助六だった。助六は江戸っ子の憧れ、江戸の洒落っ気と粋を美しく具現化した荒事の集大成だった。チャン・グンソクと向井理とブラッド・ピットを一緒にしたようなスーパー・スター、それが助六だった。
市川宗家に始まった隈取りや六法など、荒事の男伊達として生きた團十郎の一生が、そこに眠っていた。
町衆に許された華やかな脇差を抱いて、安らかに眠ってほしい。
「花脇差」を抱いた團十郎
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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