「海の見えた劇場」の終焉

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「海の見える劇場」として六本木に俳優座劇場が生まれたのは、1954年4月だった。
 こけら落としは、アリストパネスのギリシャ劇「女の平和」、男達はすぐ戦争にいく。女たちは戦争にいく男達とのセックスを拒否しよう。敗戦の記憶が生々しく残る当時の反戦思想が色濃く反映したレパートリーだった。「女の平和」は後にバレエにもなり、帝国劇場でも上演された。
 俳優座の4階からは東京湾の海が見え、ロマンな空気に抱かれた新劇のメッカが誕生したと、当時の演劇マニュア達から憧れの眼で見られていた。
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 道を渡った劇場のまんまえに「外食券食堂」があった。昼飯をたべるには、オカミの下さったチケットがないと食べられない時代だつた。東野英治郎、東恵美子、平幹二郎、栗原小巻などみんな肩を寄せ合って「サバの定食」など食べながら、演技論をかわしていた。
 六本木は俳優座劇場を中心に文化の町のイメージがふくらんでいった。のちにテレビ朝日が加わり、さらにキャンティや瀬里奈が加わり、ゲイ・バーやショウ・パブが出来、やがて六本木はディスコとともに肥大化していった。
 1978年の夏、「天皇裕仁」が上演されることになった。
 怒ったのは右翼、車6台を連ね、劇場に殺到、発煙筒を炊き爆竹を鳴らし、劇場に入れろと大騒ぎになった。天皇を誹謗するとは!! 許しがたいと「天皇劇中止事件」もあった。ロシア演劇の衰退から次第に演劇活動は細分化し、下北沢やら中野など小劇場へと移っていった。
 六本木の文化は「風俗とショッピングの六本木」に奪われた。
正面.jpg
 2025年4月に俳優座劇場の閉館されると発表された。
 筆者も平安に材をとった「夢殿」を演出したこともあった。
 まわりは超高層ビル群となり、「海のみえる劇場」はまぼろしとなった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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