「何もしなかった」名将工藤公康

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「何もしなかった」名称工藤公康
 初監督の工藤公康が、見事ソフトバンクホークスを優勝に導いた。
新しい監督は、必ずあれこれと新機軸を打ち出したがるものなのだが、工藤監督はなにもしなかった。
「なにもしない」ということは往々にして無能だの、サボっているだのと、間違われるが、この場合何もしないことが一番と判断したのだろう。
 なにしろ昨年日本一に輝いた圧倒的な戦力のあるチームを引き継いだのだから、なにもせずこの戦力をうまく保持できさえすれば、優勝にたどりつけると考えたのだろう。テレビでの解説者を勤め、すべての球団の戦力を見つめ、掘り下げる時間を経験のなかにとりこんでいたのも多いに幸いした。
 年俸4億円でボストンから帰ってきた松坂大輔を使わなかったことも見識だった。日本テレビの巨乳アナの餌食になった松坂は、食の不養生と練習に対する不熱心で悪評サクサクだった。外国病の女房はボストンに住めて万歳、旦那はボロボロ、それでも帰国せず、貴方だけ帰って日本で働いたら、とばかりボストン暮らしを満喫している悪女だ。
 スポーツ選手の日常にとって生活管理、食の管理がいかに重要か、ということが全然わかってない。松坂も一時の色恋にめがくらみ、結局一流選手の芽を摘んでしまった。
 メジャーへ、メジャーへとなびいた選手も随分いるが、成功している選手のかげには必ずと言ってイイほど、良妻賢妻がついている。変な女子アナに捕まったら、蛇に見込まれたカエルのごとく一生を棒にふる。
 松坂大輔はそのサンプルともいえよう。
 なにもしないで優勝を手にした工藤公康は、ヒョットして名将の道を歩むかもしれない。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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