「モーニング・ショー」が何年振りに復活したと伝えられている。
1964年、春の出来事だった。 前年アメリカのNBCネットで大ヒットした番組に、朝の「TODAY」という情報番組があった。その番組に惚れたヴィクスという飴玉メーカーがあった。ヴィクスの日本上陸にあたって、宣伝媒体としてTODAYのような番組が作ってくれないか、というのが、オーダーの趣旨だった。
当時の民放テレビに全日放送はなく、特に朝の時間帯は死に体で、NHKの教育と当時のNETテレビに学校放送があったぐらい、その死に体の時間に新しい番組を立ち上げるのだから、スタッフ一同自殺行のような心境だつた。
ウィークデイの朝8時30分から9時30分までの60分、毎日生のワイド番組を放映するということになった。いまならなんのことはないが、あの頃はドラマもバラエティも60分、30分が大枠で、二時間の枠はほとんど考えられなかった。
スタッフは制作局演出部からと報道局、そして教育教養部からの選抜で構成された。今は亡き報道の渋ちゃん、松元さんは頼りになる仲間だったし、小生はもっぱら芸能、音楽のプロデュースを担当した。
そこから名曲「誰もいない海」や、かの美輪明宏による「よいとまけの歌」が生まれた。
司会者についても随分試行錯誤を重ねた。
いちばん始めはご他聞にもれず、NHKの有名人、高橋圭三をお偉いさんが連れてきた。取りあえずパイロット版を作ってみようという事になった。まず経験主義からくる独走体質の高橋圭三にあきれた。NHKへの不信感が充満したが、ほかに適任が見当たらない。いろいろと試行錯誤の結果、同じNHKで街頭録音やクイズをやつていた木島則夫にたどりついた。脇には現在料理の栗原はるみの旦那に収まっている栗原玲児と、九州から井上加寿子をキャスティングした。
さてタイトルを、というときにいろいろ揉めたが、ニュース、スポーツ、芸能、音楽、料理、ゴシップ 等のマルチ・ジャンル番組なので、「モーニング・ショー」という新しいジャンルを表現したネーミングはどうか、と提案した。
かくて木島則夫モーニング・ショーは生まれ、タイトルは若き日の天才山藤章二が画いてくれたが、スタッフは木島則夫のNHK出身者特有の官僚体質に随分泣かされた。
2015年復活した「羽鳥慎一モーニングショー」 よ 頑張れ!
「モーニングショー」の名付け親から
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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