「大橋巨泉」という司会者がテレビ局の廊下を闊歩していた時代があった。
彼は麻雀、釣り、ゴルフなど趣味の世界をテレビに持ち込んで、見事にひとびとの関心をひきつけた。本来音楽評論家という職があったが、次第に遠ざかって行った。やっと小銭を手にした日本人が、初めての海外旅行に出掛ける先々に、日本人専用とも言える土産物屋OKショップを開いた。OKショップのマネージャーは、日本での彼の番組で働いていたスタッフが、多かった。その後政治に手をだしたりもしたが、志空しく挫折した。もはや巨泉の時代ではなかったのだ。
上から目線でモノをいう似たようなタイプの司会者が、「みのもんた」であると言えよう。確信的な口調で浅い政治批評をしたり、傍若無人に祇園の芸妓に呼びかけたり、メディアを私物化する達人だった。スタジオで生放送中にセクハラしたり、観客のおばさん達をお嬢さんと呼んでみたり、いわばテキヤ芸の司会者だった。 ため込んだ財で自分の出演するTV局の株を買う辺り、事業家としての顔は巨泉に似ている。
二人の倅をそれぞれTBSと日本テレビに押し込んだあたりも、もはやみのの時代は終わっていた。
タモリの場合は少し様子が異なる。博多でのマニュアックな芸が受けて、上京したのだが、フジ・テレビに場をえたことが、結局彼の命をテレビ並みにした。「面白くなければテレビじゃない」と掲げたフジの編成そのものが視聴者にあきられた。ジャニーズとお笑いに頼ったブジは、失ったものの大きさに気がついていない。名物テレフォン・ショッキングも、友達の輪ではなく、宣伝の輪とばれたし、スタジオに飾られた花輪も、真心の花ではないということが御見通しになった。
お笑い達がなんの努力もせず、だらだらと遊んでいるのをバラエティと称していたが、バブル崩壊の後遺症がそう何時までも続くわけもなかった。タモリの人の良さがここまでフジとの仲を引きずってきた。
長いこと司会を務めてもミノのような嫌味はないが、もう疲れたし飽きた、というあたりいかにもタモリらしい。ミノもタモリも居なくなって、次に居なくなるのは小倉智昭、黒柳徹子、関口宏、それからがテレビの正念場になる。
「ミノ」も「タモリ」も居なくなって、さて…
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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