帝国劇場文芸部にいた頃、ひるめしはいつも有楽町ガード下だった。
店の名前はすっかり忘れてしまったが、イキのいい夫婦がやっているちいさなごはんやだった。手元不如意なときはメンチ・かつ定食、すこし潤沢なときはとんかつ定食だった。とんかつは若もの達のビタミン剤だった。後にサプリメントなどと称する活性剤が登場することなど知る由もなかった。
テレビの創業とともに、メイングランドが六本木に移った。昼蕎麦は長寿庵、または永坂更科、昼イタは狸穴キャンティ、中華は中国飯店、スタジオでの徹夜らーめんは麻布十番の登龍、とんかつが食べたいときは、少し足をのばして目黒のとんきにいった。
「とんき」はまだ戦災の焼跡が残る目黒で活気に充ちた大店だった。コの字型の大カウンターで二、三十人の客が一斉にとんかつをたべる情景は壮観そのもの、まったくの初体験だったし、キャベツのお代わりが自由だったのも嬉しかった。
とんかつを食べにとんきに行ったというよりは、「とんき」を食べに行った感のほうが大きかった。目黒のさんまとインプットしていたのが、「目黒はさんまととんかつ」にかわったのが目黒とんかつ村落のパワーだった。
ファッション・ショウやオペラに係るようになって通ったのが、上野、御徒町のとんかつ村落である。
なかでも松坂屋の南にあるぽん多本家は、気分転換のエネルギー源だった。
「ぽん多」のどっしりした店構えが頼もしく、こんな構えの店がいい加減なとんかつを出す筈がないという思いこみで通った。のちにこの国のカツレツ生みの親、島田信二郎直系の四代目が経営する店と知った。ぽん多の名物カツレツはたんシチューと共に、歴史の味がした。
軽井沢に住むようになってから覚えたのが、駒ヶ根ソースかつ丼。駒ヶ根の音楽プロデューサー三沢照男さんに連れていかれたのが、駒ヶ根ふるさと食起こしのど真ん中にあった駅近くの食堂やまだだった。難しいことは言わず豚のロース肉120グラム以上、濃厚タレはそれぞれの店風に、キャベツ以外はひいてはダメのルールで、見事に駒ヶ根食起こしのシンボルになった。
軽井沢では駅前アウトレットに、駒ヶ根明治亭が進出している。
「とんき」から「ぽん多」、そして駒ヶ根ソースかつ丼
コメント
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
コメントを残す