「つま恋」は音楽の聖地だつた

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「つま恋」は音楽の聖地だつた
 あの頃、憧れのリゾートだった「つま恋」が、とうとう終幕を迎えることになった。海の向こうも、地中海クラブも知らなかった若者にとって、ヤマハ・リゾートつま恋は、リゾートの聖地であり、音楽の聖地だった。
 若手ミュージシャンの登竜門「ポピュラーソング・コンテスト」はつま恋のエキジビション・ホールから始まった。 中島みゆきの「時代」も、あみんの「待つわ」も、小坂明子の「あなた」も、みな「つま恋」のポプコンから生まれた。
 東京で音楽に携わっていたスタッフは皆競ってつま恋に馳せ参じた。当時音楽プロデューサーも務めていた筆者も、フェアレディを駆って掛川のつま恋にかけつけた。途中給油のため立ち寄ったスタンドで、行き会う平尾昌章やら、東京のレコード・ディレクター達と、今年の下馬評を語りながらのドライブは、実にたのしかった。
 つま恋のポプコンは、あの頃天皇と呼ばれていたヤマハ4代の社長川上源一氏なくしては語れない。1951年、いち早く銀座にレコードと楽器の殿堂を建てたのは川上天皇だつた。レイモンド設計のヤマハビルは、荒廃した銀座に文化をもたらした。越地吹雪が初めてのリサイタルをしたのも、あのヤマハのホールだった。
 レコード売場の女性たちは、銀座を徘徊する男たちのマドンナとなり、川上天皇ご寵愛だった女性は、今ラスベガスで静かに余生を送っている。ベガスではいつも彼女にあい、音楽とショービジネスのいまを語り合っている。
 ピアノ製造を世界一に育て、楽器の日本管楽器やヤマハ発動機、はてはヤマハインテリア、そしてつま恋のリゾートを作り上げた川上天皇は、天国でこのつま恋の終焉にどんな想いを抱いていることだろう。


コメント

2件のフィードバック

  1. IFAの時の研修旅行で利用した記憶が…
    初めてディスコに入った気がします
    当時は価値がわからずもったいなかったです。
    今の脳みそをもって当時を過ごせていたら
    それは楽しかったでしょうに…
    ポージングとかウォーキングとか
    今思うと恥ずかしい動きしかできなかったな~と
    カメラ恐怖症になってしまいましたが
    クラブ遊びに目覚めた30歳過ぎ頃は
    望んでもいないのにだいぶ被写体にされていたみたいです。
    自分で思ったより可愛く撮れてないのが
    カメラ恐怖症になった原因だと思われますw

  2. いつも御覧いただき感謝です。
    歴史はひとつずつ消えていきます。
    つま恋も川上源一の描いたヤマハへの夢も
    忘れ去られていきます。
    人生は短く、人生ははかない自己満足かもしれません。

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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